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1487年のロシア・カザン戦争 はモスクワ大公国とカザン・ハン国との関係上においては転機であった。ロシア人は初めてカザンを攻略してハン国を自らの支配下においたからである。 == 戦闘までの経緯 == 1479年にカザンにてイブラヒム・ハンが逝去した。彼は2人の妻との間に5人の息子をもうけていた。ファーティマとの間にはイリハム、クダイ・クル、メリク・タギルの3人の息子を、ヌール・スルタンとの間にはムハンマド・アミン、アブル・ラティフの2人 の息子をそれぞれもうけていた。ファーティマはイブラヒムの最初の妻であったが、ヌール・スルタンの方がイブラヒムと結婚した時には既にハンの后妃となっていた。後者はイブラヒムの兄弟であるハリルの妻であり、だからこそ年長の妃と見做されたのである。ハン国ではハン位継承順位がしっかりと確立されておらず、様々な派閥が争いを引き起こした。ファーティマの息子であるイリハムが勝った。その支持者はノガイ・タタール人 との同盟に依拠しており、中央アジア、特に奴隷貿易との結び付きを必要としていた。イリハム支持者の関心はロシアとの対決並びに売買用の捕虜獲得を目的とした部分的な襲撃にあった。逆にムハンマド・アミンの支持者はロシアとの平和的関係並びに互恵の貿易に関心があった。ムハンマド・アミン支持者はムハンマド・アミンを権力の座に据えることは出来なかったものの、ロシアに送ってモスクワ大公イヴァン3世大帝の保護下におくことは出来た。ムハンマド・アミンの母親であるヌール・スルタンはロシアの同盟国であるクリミア・ハン国のメングリ1世ギレイと結婚し、弟のアブル・ラティフを一緒にクリミアへ連れていった 〔Худяков. Очерки по истории Казанского ханства. Глава 1 〕〔Алишев С. X. Казань и Москва: межгосударственные отношения в XV—XVI вв.. — Казань: Татарское кн. изд-во, 1995.С.38〕。 1482年にイヴァン3世はカザンに対する大規模な遠征に取りかかった。一方の軍勢はニジニ・ノヴゴロドからヴォルガ川を下り、別の軍勢はヴャトカ人の地 から攻勢に出る必要があった。けれどもイリハムは和平を行い、ロシア側の要求に応え、遠征は行われなかった。 けれども権力闘争は止まなかった。1484年にムハンマド・アミンがハンとなった。翌年は内訌で満ち溢れていた。ムハンマド・アミンとイリハムは、必要とするノガイとロシアの両軍勢を利用して数度に渡ってハン位を交替した。1486年にムハンマド・アミンはロシアに亡命した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロシア・カザン戦争 (1487年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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